記念講演
国際協力機構(JICA)理事長、前国連難民高等弁務官
緒方貞子
本日はAFS日本協会50周年記念にお招きいただきまして、まことにありがとうございます。
横浜に参りますと私も自分の昔のことを思い出します。私は1951年に大学を卒業し、ロータリー財団のフェローシップをいただいて、こちらにある氷川丸でアメリカに留学いたしました。みなさまのこのAFSの歴史を見ますと、1954年に8名の高校生がやはり氷川丸に乗って行かれたとあります。実は私も中国やアメリカに参りまして、子どものころ氷川丸でアメリカに行ったこともあったのですが、その氷川丸が新しい戦後の時代に貨客船という形で留学生などを乗せたりする役割を果たしたことを思い、今昔の感に堪えない気がいたしました。
当時アメリカに行くというのは、学生にとっては非常な励みであったと思います。特に若い高校生でおられた方たちが行かれたということは、すばらしいことだったと思います。今思い出しましても、その頃の日本と言うのは、おそらく皆様が今お思いになるよりよほど意気に燃えた自由な時代だったと思います。私も女子大学を出まして、かなりの同級生が留学しました。そして皆は新しい日本というものを期待し、こういうことができるようになったことを楽しみながら出かけたわけです。また、当時のアメリカも戦争に勝って、「これこそ自由と民主主義が勝ったんだ」という自信、そして非常に寛大な精神に満ちていて、外国からきた留学生の面倒をよく見てくださったのです。
今はたぶん交換留学生の数がずっと増え、外に対する寛容性を持って臨むというその時代のアメリカとは異なってきた状況のもとで、いろんな留学生が大きな勉強をしているのだと思います。そのとき留学したということは、私にとっては、非常に大きなアメリカでいろいろな国から来ているたくさんの留学生に会い、その意味では確かに見聞を広めた、大変大きな経験だったと思っています。それと同時に仲間が非常に増えていった。同じような気持ちをもっている青年たちが、自分の国はこうだ、あなたの国はどうですかと、異なった人たちとの交流をする大きなチャンスに恵まれたと記憶しております。私たちは非常に好奇心を持ってアメリカでの生活を終え、そしてその好奇心が基礎になってその後の生涯をかたどっていったのではないかと思います。それはおそらく、そのころ出かけられたAFSの皆さんも同じような態度で非常にたくさんのことを吸収され、それが一つの習性となって、その後いろいろな形で活躍する方々が出ていらしたのだと考えています。
もう一つ私が考えたことは、一体日本はどういう国だったのだろうか、どうしてああいう戦争になったのだろうかということです。こういうことについて非常に真剣に考え出したのは、やはり留学したからだと思います。私たち50年代60年代の世代ですが、外国で勉強した学生、研究者の人たちはみな国際政治や歴史を非常によく勉強しました。その人たちの共通の課題は、どうして第二次世界大戦が起きたのだろうか、私たちはその原因をどういう形で理解したらいいのかということで、皆でかなり考えた時代でもありました。私はその後学究的なキャリアを選んだわけですが、研究生活を経た後に教育、そして、ある程度の学問と実践の生活をいろいろやってまいりました。
ちょうど1968年、日本が国連に入りまして国連の総会への代表団に女性を一人入れるようにと、市川房枝先生が非常に活躍されたのですが、日本の女性団体の強い要請がありました。ある時突如、偉い方々のご都合が悪くて行かれないということで、まだ若輩だった私のところにそれが回ってきたわけです。今から35〜36年前の話ですが、その後何回か総会にも参りましたし、いろいろな政府代表の役割も果たしました。その後は国連の職員にもなったわけで、そういう形で研究生活と実践の生活とを経てきた――それが私の留学ということを契機に起こった一つの生涯のパターンではないかと思います。
特に1990年代になりましてから、国連の難民高等弁務官として十年間仕事をいたしました。その十年間に得たこと、習ったことは、その前の生涯にも比べられないほど、非常にインテンシブな教育を受けた期間だったと考えております。その90年代というのはそれまでの冷戦時代と異なりまして、非常に国内紛争が広がった時代でした。数の上でも難民が一番増えた時代――これが90年代だったわけです。最初に私が高等弁務官になりましたときには、今の北イラクのクルド族が弾圧に遭いまして逃げようとする。180万という人がイラン、そしてトルコの方に動いたわけです。それと前後して、五つの共和国が一つのユーゴスラビア連邦になっていたのですが、それが分解を始めて、たくさんの人々が故郷を逃れ、国内でも難民化し、ヨーロッパにも行き、約300万近い人たちが動き出したわけです。
またアフリカでは、大湖地域といわれているルワンダ、ブルンジという所で内戦が激化しまして、ここでも200万ぐらいの人が動いた。それは、数にしましても一番多くの人が難民、あるいは難民のような状況になって動いた時代だと思うのです。その間その人たちを保護し、何とか生きていく方法を見つけてあげることに尽力する。それと同時に支援をして、彼らが何とかそういう状況のなかででも生きながらえるように、食料から医療から安全な場所を見つけることからいろいろな仕事をしたのですが、そういうものを見ながら、これは一体どういう原因で起こったのだろうかということをしばしば考えなければなりませんでした。クルドにしても、クルド族というのは五つの国に分かれて自分の国を持っていない人たちです。バルカンでも三つの民族、セルビア、クロアチア、そしてイスラム系の人たち。そして、アフリカの大湖地域にはツチ族、フツ族という人々のほかにもいろいろな部族がいる。そういう人たちが、自分たちの特殊な状況のために差別や区別の対象になっていて、そういう社会的な原因、あるいはその原因が宗教の場合もあるのですが、その差別と区別が政治的にどういう迫害状態を生むものなのか。さらにそれが単なる迫害から強制的な送還、そして紛争とどういうふうに広がっていくのか。その状況をつぶさに見て、何とかしたいと思って暮らしたわけです。
貧困の原因が差別を生むときも生まないときもあるのですが、貧困そのものよりも、貧困にともなう様々な不公正、差別、区別の問題が難民を生んでいるのだということを、私どもこの仕事に携わった者はつくづく考えたわけです。そして、どうやったらこういう人たちを守ることが出来るのか。このような差別や区別に基づく原因には心理的なものもありますが極めて社会的なものであり、どういうふうにすればそれに対応できるのか。これを工夫し、何とかそれに対応する方法を探そうと思ったのが、私どもが救援活動をしながらいつも気にした点でした。
国とはどういうものなのだろうか。国家というのは、本来ならば国民を守るためにある存在が、国家そのものが国民を迫害し、そして、国内における力の関係に基づく紛争を起こしているのではないか。どうやったら人々を守れるのだろうか。こういうことを考えるにつけて、社会のなかで人々がある程度安定して暮らしていくための別の答えがあるはずではないかと考えたわけです。つまり、人々が社会を重視し、ともに暮らす方法はどうやったら打ち立てていくことが出来るのだろうか。その辺から、難民に対応しながら私どもが考えたのは、国家に基づく安全保障ではなくて、むしろ人々に基づく、社会の安定に根ざした安全保障の考え方を打ち立てていかなければならない。そういうことが契機になりまして、その後、人間の安全保障という考え方を提案することになっていったわけです。
人間の安全保障とは、何も国家を無視せよとか廃止せよとかいう考えではないのですが、国家がきちんとした役割を果たすためには社会がきちんとしなければならない。その社会の安定というのは、そこに暮らす人々が自分で自分たちを守る自治能力を強めていかなければならない。そして、何とかお互いの違いをよく認識し、違った価値感を持った人々を認め、尊敬していく。そのような共存共栄の社会をどうやってつくっていったらいいのだろうかということが大きな課題になりました。難民高等弁務官の仕事を終えた後、日本の政府、そして国連が非常に協力されて人間の安全保障委員会というものが設置されました。そこで人間の安全保障の概念を規定してほしい。そして、それに基づいた政策、あるいは援助は次の課題としてやっていきましょうということで、私どもこの委員会のメンバーは、これに対応するために皆一生懸命努力したわけです。
政府がちゃんとするようにもっていくためには、人々はどういう形で活動していったらいいのだろうか。それには、不安定な状況ではないようにもっていかなければならない。こういうことの答えを求めて、いろいろな研究会やヒヤリングもしました。特に、委員の中で非常に活発なジンワラさんといわれる、南アフリカの下院議長をされた方がこの問題を積極的に取り上げて、アフリカで3日間、いろいろなNGOの方たち、市民社会のリーダーたち、普通の人たちを集めてヒヤリングをされたのです。結論は、安全であるということが例外である社会が、実はあるのだと。アフリカの多くの国々にとっては不安定が原則で、これを安全なものにしていくためにはどうしたらいいのか。これが課題なのだという結論になりました。そのためには、人間の職業をきちんともつこと、教育を受けること、医療をきちんと届くものにすること、失業を何とか止めること。私たち日本にいれば、おそらくAFSで留学したり、または留学のために日本に来ている方々にとっては当たり前と思われることが、実はそれほど当たり前ではない状況のところが世界には沢山あるわけです。
こういう事を調べるために中央アジアの五カ国で政府、NGO、研究者を集めて、皆さんにとっての安全保障とはどういうものかというヒヤリングをしてみました。そこには、ソ連邦のなかにあった五カ国が独立したのでものすごく大きな政治的な変化があったわけです。今までの社会主義国では、教育とか医療の、底辺の対応というのがある程度きちんとされていたのがなくなったわけです。言葉一つにつきましても、どの言葉を使うのが一番、自分たちのアイデンティティのために大事なのかということについても大きな議論が分かれたわけです。ですから、政治的に突然悪い状況が起こる、あるいは経済的に恒常的に不安定な状況は、いずれも対応しなければ人間の安全保障というものはできないという結論になりました。それではどうやって解決していこうかということで、皆で努力したわけです。民主的な政治を導入すればいいのではないかという答えがよく出てくるのですが、これは案外容易ではないということがそのころよく感じられました。
たまたま昨日、アフガニスタンとオーストラリアで選挙がおこなわれました。オーストラリアはいつでもきちんと選挙をしながら民主的な政党政治が確立している国なんですが、アフガニスタンは、おそらく歴史上初めて直接大統領選挙がおこなわれたわけです。その選挙を実施していく過程ではいろいろな問題があるとは思いますが、ともかくこの国が安全に、かなり信頼のおける選挙を達成すれば、これは大変なことだと私は思っています。
時には選挙をするために政治的な対立が余計に起こる状況もあると教えてくださったのは、私が非常に尊敬する当時のタンザニアのニエレレ大統領です。「政党政治をすると焦点が対立的になっていくものですよ。ですから新しい国がいきなり選挙をもってくるというのは、必ずしもいいものではないように自分は思う」と、いつか、おっしゃったことがあるのです。それは、政党政治になりますと対立点をどうしても表に出さなければならない。そうすると、非常に若い、国作りにある国々においては政党があるために、そして政党をもとにした選挙をしなければならないために対立点が表に出て、例えばニエレレ大統領が大統領をしていらしたころは、難民を周辺の国から受け入れることは当然人道的なこととして何でもなかった。ところが、民主化のプロセスが導入され、政党政治が出てくると、「ああいう難民を入れるのは、自分の国にとっては迷惑で危険で、よくないのではないかという議論がでてくる。したがって難民の受け入れひとつでも難しくなっていくんですよ」という話をされたときに、国づくりのプロセスとはどういうふうにすれば差別、区別の問題を乗り越えて、皆がいいコミュニティを作っていけるようになるのだろうか、ということを悩んだものでした。
このごろ戦後復興とか平和の構築とか、国づくりという問題が注目を浴びていることを、私としては非常に心強く思っています。学会の研究でも、あるいはシンポジウムでも国づくり、平和構築ということが話題になっております。どうしてこういう状況が起こったのかと考えるのですが、ひとつには、90年代の非常に広範な内戦の時代がある程度収斂してきたのではないか。そこから、どうやって国づくりをしていったらいいのかということに国際的な関心が及び出した。これは非常にありがたいことです。ただ、紛争の原因には、差別や区別の問題、それを利用した政治の問題、その政治にのる武力行使の問題があることは事実ですが、そういう問題を解決していく方法としてはずいぶん多様なものがあって、あるフォーミュラがあればそれで効くというものではないと思うのです。その土地、そこの社会、そこの政治にあった形の国づくりをしていかなければならない。
内紛が非常に多かった時代からやや内紛が終わって、フェイルド・ステイツ(「失敗した国家」という言葉は、私はあまり好んでいないのですが)というのがあったとすれば、それはその国家のせいだけではなくて、国際的、あるいは地域的な政治の対立の犠牲になっている場合が多いとしても、十分に自立して安定した社会をつくれない国があることは事実です。それに対して何とか助けの手を伸べたい。そしてまた、そういう国がないことが国際的な政治安定にもつながっていく。こういう意識があってか、平和構築の話題というのが強くなってまいりました。日本の政府も平和構築ということに日本の援助を向けようという方針が出てきており、平和構築をどうしたらいいかという工夫も出てきております。これは、私は大きな課題として、もう一度人間の安全保障ということと絡めて考えていかなければいけないと思うのです。国家だけを作ることは出来ないのです。国家と社会と両方にきちっとした取り組みをしていかなければいけない。
2001年9月11日のアメリカに対する非情なテロの動きから、テロの温床となった国はどこなのだろうか。その温床となっている国ともっときちんと対応しなければいけないのではないかという考え方から、アフガニスタンへの軍事行動、そしてそれに引き続くアフガニスタンの国づくりということが国際的な話題になったのです。東京で最初の会議が行われ、、アフガニスタンを国としても、また社会としても何とかしようという努力が国際的に見られました。アフガニスタンについて、どうしてそんなに社会に対する関心が強かったかと申しますと、アフガニスタンではイスラム原理主義の政権だったタリバン政権が、女性に対するきわめて厳しい政権的なアプローチ――女子の教育、女子の就業、そして女子が社会的に活動することを抑えてきたこともあって、今度は、国づくりをするときは何とかして女子には教育を与えたい。また、仕事をする機会も与えたい。充分な医療の機会も与えたいというコンセンサスが広くできたものですから、初めから、一方では政権をきちんと作るという努力をすると同時に一般の人びとの生活をもっと安定させたいという国際的な動きがあったのです。
アフガニスタンについては、いわゆる人間の安全保障と国家の安全保障という二本立てで国作りの対応が行われたこともありまして、いろいろな国づくりの課程で、社会の仕組みに対する配慮がそれ以前よりはずっと強く出てまいりました。まだやらなければいけないことは沢山あると思うのです。社会の仕組みを考えたときに、どういう権利を人々に認めるか。特に市民権の問題、国籍の問題、あるいは難民を含むいろいろな弱者への対応ということが、社会の安定のために非常に重要であるという認識が広まってきて、これは私も非常にいいことだと思います。それと同時に貧困に対する対応も、弱者救済の観点だけではなく、社会の安定のうえで大事だという認識が強くあります。また貧困の解消とは、ただ物をあげるだけではなくて、人々が自分の力で、いろいろな仕事を通して生活の糧を得られるような援助をしていかければならない。あるいは手伝いをしていかなければならない。そういう考え方がかなり強くなってまいりました。様々な社会保障制度確立の重要性も認識されています。
何よりも大事と言われているのが教育の問題です。教育を受けて初めて人々は自分の持っている潜在的な力に気がつき、それを充分発揮できるような方向へ動いていくことの重要性を認識するだけではなくて、そういうことが出来るようになるわけです。この教育の重要性というのは、人間の安全保障の委員会の報告の中にも非常に重要なものとして出されております。それは、ただ学校に行けばいいということではなくて、受ける教育が、一言で言いますと「多様性を認め、多様性を尊重する」教――これが広い意味での社会の安定と国際的な協力の鍵として大事だというふうに唱われております。
そう考えて参りますと、このAFSという留学の仕組みは、まさにこれから求められている、多様性の理解と尊重というものを中心とした経験でもあり、教育を実施していくスカラシップの制度ということで、非常に注目されるものではないかと思います。日本の教育はパーフェクトではないでしょうけれども、平均的な教育の高さから言えば国民に広く行き届いていて、かなり進んでいる国だと思うのです。ですがそのカリキュラムにおいて、本当に違った人たちが世界にいるんだと、そして思想の違う価値観そのものを理解し、尊重していく方向に動いているのだろうかということを聞きますと、その点では日本がこれからの世界できちんとした役割を果たしていくにはまだまだ充分ではないのではないかという答えをよく聞くわけです。そういうことを考えますと、これだけたくさんの日本の青年が海外に出て行かれ、しかも、いろいろな国からたくさんの青年を受け入れておられる。特に高校生というまだ若い、感受性の強い方たちが、そういう経験を通して多様性を尊重し、それを自分たちのものとして受け入れていく。そういうスカラシップの重要性は、いくら言っても言い過ぎることはないと思うのです。皆さんは世界的に考えても大きな役割を果たす方々であり、また今一番求められているものを得る大きな機会を与えている制度だと考えたものですから、皆さんがそういうところに関係していらっしゃるということで、大いにがんばっていただきたいと思ったわけです。
最初はアメリカと日本の間で起こった留学生交換だと思いますが、今はグローバリーに広まっている。しかも今はアメリカと日本だけで暮らしていける世界ではなく、グローバリゼーションにはたくさんのアクターがいるわけで、国々にとっても、人々にとっても、非常に文化も違う、目的も違う、前提としている価値も違う人たちが皆一緒に暮らしていかなければならないこの時代にこそ、グローバリゼーションというものを中心に考える留学制度の価値は一段と大きいと思います。皆さんには素晴らしい機会を充分使っていただきたい。そしてまた、すでにそういう機会を持った方々はそれを広めていただきたいというお願いを兼ねて、これからの出発のお祝いと同時に期待を一言申し上げたいと思って伺いました。こういう機会を頂いて大変有難うございました。